『ニキータ』リュック・ベッソン監督

ニキータ』はリュック・ベッソン監督によるフランス映画だが、アメリカで撮られたリメイク版で、ジョン・バダム監督の『アサシン』という映画がある。『ニキータ』はとてつもなく面白い映画なのだが、『アサシン』は平凡な映画だ。『ニキータ』の中で面白いと思えるシーンがことごとくつまらないシーンに変えられているからだ。
なぜそうなってしまったのか? 元のままだとアメリカの観客や映画会社が納得しないからであろうと思う。ハリウッド的でないからなのではないか?
たとえば仏版では、主人公ニキータが秘密工作員として世間に出て初めての任務のシーン。ホテルの地下室に呼ばれてやってくると、そこには無口な工作員たちが、ただひたすらターゲットの部屋に入れるチャンスを待っている。ここにいる場違いな感じの中年の男がただ一人大汗をかいて緊張している。この不自然な状況がこの仕事の異様さと緊迫感を出している。ここではメイドになって、何やら変な機械を仕込んだ(盗聴器らしきもの)ルームサービスをただ届けるだけ。ターゲットがどんな人間か、その後どうなるかもいっさいわからない。わからないからこそ緊迫感があってリアルで面白いのだ。しかし米版では、汗をかいているオヤジは出てこない。そのうえ、届けた物に爆弾が仕掛けてあり、ドカンといくのである。何がその後に起こるのかわからないからこその緊迫感とリアリティがあるゆえの面白さがここには無い。
そしてラスト。ニキータの逃亡後、彼女はどうなったのか? 仏版は結末が見た人ひとりひとりにゆだねられている。彼女は「警官殺し」という罪を抱えている。「今までにその罪をつぐなってきたのだ」と思えた人には、ニキータの逃亡は成功したであろう思えるだろうし、「人殺しの罪のはこんなことでつぐないきれるものではない」と思う人にとっては逃亡は失敗に終わると考えるのであろう。ハッキリとした結末のあるエンディングでは無く、見る人の考え方をさりげなく問うエンディングだ。しかし米版では逃亡後の彼女が現れて映画が終わる。つまり逃亡は成功したとして終わるのだ。
掃除人のキャラクターも仏版と米版ではかなり変わっている。仏版の唐突に現れ、一瞬にして場をかき乱していく(?)ジャン・レノのクールな暴走の方が、ハーヴェイ・カイテル扮する、組織に従順で冷酷な米版よりも、オリジナリティもあり圧倒的に面白い。
だから「ニキータ」と「アサシン」を見比べればアメリカ映画の欠点と限界がわかる仕組みになっている。もちろんアメリカ映画にもいいところはたくさんあるし、フランス映画につまらないところもたくさんあるけどね。
ラストで彼氏のマルコ(ジャン=ユーグ・アングラード)と上司のボブ(チェッキー・カリョ)が対峙するシーン。両者とも心労と絶望の表情だが、マルコが「ニキータからボブに宛てた手紙は破り捨てた」というと、神妙なボブの顔が一瞬ほころぶのである。それはニキータが自分に手紙を残してくれたという事実に反応したのでは無く、マルコが手紙を破り捨てたというところに反応してだ。つまりボブはこの時ニキータの気持ちがマルコにだけでなく、自分にもかなり残されていると知ったからだ。こんな細くも絶妙な演出が『ニキータ』の魅力でもある。
とにかく『ニキータ』は自分にとっては、全てのシーンに意味があり、全てのシーンが面白い、完璧な映画なのです。

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