『ナンバーファイブ(吾)』 松本大洋 小学館

Prologue

松本大洋の『ナンバー吾』。なぜこのマンガに惹きつけられるのだろう? ストーリーその物は極めて単純。
はるか未来に衰亡しつつある人類を導くエリート集団があり、そのシンボルとなっている平和部隊「虹組」の幹部達の追走劇である。幹部たちは皆、所属部隊のナンバーで呼ばれ、王をリーダーとしている。その中で、王の使用人だった、通称マトリョーシカという女をナンバー吾が連れ去り逃亡。王は彼を倒すために「虹組」のメンバーを刺客として送りだしていく。
今回は視覚的な部分から、からこのマンガの面白さを伝えられたらと思います。


このテンポとリズム感が抜群のコマ構成が魅力だ。

videographic-memory and filmgraphic-memory

このマンガが視覚的、感覚的な部分に迫ってくる快感はかなりのものです。それは極めて映像的であるから。というのが結論なのだけど、もともと、平面的で紙芝居的だったマンガに、手塚治虫が映画のような演出を取り込む事によって、マンガの表現の質も幅も格段に広がり、近代マンガが始まった*1と言われていて、そこに今更映像的なマンガなどという事を言い出すのはいささか陳腐過ぎるけど、この松本の映像的マンガと、手塚や石ノ森章太郎*2たちの映像的マンガとの間には決定的に違いがある事は確かだと思う。その違いも感覚的なもので、簡潔に言えるものではないし、いくつかのシーンの一部を抜きだしてきて並べてみてもそこに違いを見るのは難しい。それぞれの作品を通読してみて感じられる事だからだ。だけど、手塚、石ノ森のマンガと松本のマンガの映像感覚の違いが生まれた原因を探る事はできる。それはテクノロジーの進歩に関係がある。巽孝之著「『2001年宇宙の旅』講義」*3という本の中にその鍵があった。巽氏は、

テクノロジーとレトリックの相互駆引は縁が深い。たとえばタイプライターが発明されなければヘミングウェイ*4のハードボイルド文体はありえなかった、と識者はいう。

2001年宇宙の旅』講義」P42より

と書いている。つまり、手書きからタイプライターで書くという、道具の違いからくる影響によって文学作品に変化が起こったと言われているのだ。そして六〇年代的な想像力と九〇年代的な想像力の違いを解説するのだけど、その中で九〇年代的想像力とはどんなものか? というのをTVドラマ『ツイン・ピークス』を例に出してこう書いている。

デイヴィツド・リンチ監督*5が九〇年から九一年にかけて放映したカルトTVドラマ『ツイン・ピークス』冒頭、美少女ローラ・パーマー殺害後に展開される母親サラ・パーマーの回想シーンである。こんなシークエンスだった。事件の朝、二階へ駆けのぽったサラは各部屋をのぞきこんでまわるも、ついに娘を見出せない。やがてローラ殺害の知らせが入り、狼狽し絶望し意気消沈する彼女。だが、しばらくしてこの母親は、けんめいに「娘の消えた朝」のことを「思い出そう」とする。さて肝心なのは、まさしくこの「回想」の映像的表象そのものだ。というのも、その「回想」は、あたかもヴィデオテープを巻き戻すかのような「記憶の巻き戻し」によって進行し、その結果、サラは部屋の片隅、ベッドの陰にひそんでいたローラの真の下手人ボブのすがたを、まさしく記憶の片隅に「一時停止」させ「細部拡大」したうえで「(再)発見」するからである。かくして彼女は電話に直行していわく、「犯人を思い出したわ……」
このときパーマー夫人の記憶のかたちは、あくまで「ヴィデオ的」なるものの比喩だったのだろうか? そうではあるまい。リンチは、たぶん彼女の脳髄そのものを文字どおり「もうひとつのヴィデオデッキ」とみて表象しょうとしたはずだ。人間の記憶がヴィデオ的なのではなく、人間の記憶回路とはじつはヴィデオデッキそのものであり、それ自体カットアップ/リミックス/サンプリング自由自在の機械であること。

2001年宇宙の旅』講義」P44より

そしてビデオの様な記憶のあり方を〈ヴィデオグラフィック・メモリー〉と名付けている。
アナログビデオやフィルムの時代というのは、膨大なコストとプロフェッショナルなスキルが必要とされていた。今、デジタルビデオは簡単にパソコンに取り込む事ができて、それを切ったり、つなげたりと自在に編集でき、画像を加工する事も可能だ。それは個人の趣味としてもできるぐらい低コストで、習得するにもたいした時間はかからなくて済む。たとえデジタル映像の編集、加工をした事が無い人でも、現在はそういう事が可能であると頭で感じ、理解しているのだと思う。つまり手塚、石ノ森のマンガというのはフィルム時代の映像感覚で作られた記憶のあり方(フィルムグラフィック・メモリーと名付ける)で描かれていて、松本のマンガはデジタルビデオ時代の映像感覚によって作られた記憶のあり方(ヴィデオグラフィック・メモリー)で描かれていているのである。
「ナンバー吾」は松本の頭の中で一度映像として処理され、それを「ツイン・ピークス」のサラの記憶のように、カットアップ/リミックス/サンプリングして、それをマンガ媒体として出力しているのである。頭の中で処理した映像をまるでフィルム写真のようにマンガ媒体に印画していた手塚、石ノ森マンガとはそこが決定的に違うのだ。テクノロジーの進歩による、フィルムグラフィック・メモリーからヴィデオグラフィック・メモリーという記憶のあり方の変化が表現を変えてしまったのである。
「ナンバー吾」の中には映画のモンタージュテクニック*6のような構成、大胆な構図とトリミング*7、様々なレトリック*8が駆使されている。これは巽氏のいうヴィデオグラフィック・メモリーの産物なのだ。
そして一番重要なのは、松本のマンガを読むと、読者自身も自らのヴィデオグラフィック・メモリーと化した脳内で、映像として再編集しているのである。そうしてでき上がった映像がいかに面白く刺激的であるかは、人それぞれであろうが、その素材や要素の提供者としては松本大洋は世界でもトップクラスなのだ。


寺島龍一の挿し絵「指輪物語」評論社より
今回の作品の絵柄は、
寺島龍一などの一昔前の児童文学の挿し絵画家からの影響が感じられる。

このコマからは、音が聞こえてくるようだ。それは静寂という音である。

圧巻の第三巻。No.吾、No.死、ビクトルの戦い。
もう、ここまで凄いと松本大洋の作品が読める日本に生まれた事を感謝したくなる。

Mangatic symbol

映像的な表現を、初めて本格的にマンガに取り込んだのが手塚治虫なら*9、マンガ的記号を体形付けたのも手塚だ。マンガ的記号とは、図1のような汗とか効果線の事だ。しかし「ナンバー吾」は漫画的な記号が最小限に抑えられている。感情を表現する記号もあまり出てこない。しかし、キャラクターたちの感情や内面はしっかりと表現されている。スピード感を現す流線など皆無なのに、ちゃんとスピード感を感じる。これは手塚以上に映画的な手法をマンガに取り込む事によって、手塚的なマンガ記号が必要なくなったからなのだ。
松本のマンガを見て、イラストの様だと感じるのは、漫画的記号が少ないからである。
図1
手塚治虫ブラックジャック」より)

吾 1 (IKKI COMICS)吾 2 (IKKI COMICS)吾 3 (IKKI COMIX)吾 4 (IKKI COMICS)
『2001年宇宙の旅』講義 (平凡社新書)手塚治虫の冒険―戦後マンガの神々 (小学館文庫)新版 指輪物語〈1〉旅の仲間 上1 (評論社文庫)ツイン・ピークス ファーストシーズン [DVD]

*1:実際はそんな単純なものではない。「手塚自身が、マンガ的な絵とコマの展開の革新をまずやり、そこに映画の手法を取り込んだ」と言われています。もちろん影響を受けたのは映画だけではなく演劇や小説からも大きく受けています。手塚がマンガに持ち込んだ革命的手法については、夏目房之介著「手塚治虫の冒険」(小学館文庫)に詳しく書かれています。

*2:手塚的手法を正統に受け継いで、それを更に発展させたのが石ノ森章太郎だと思う。

*3:平凡社新書。1968年発表の「2001年宇宙の旅」をキューブリックの映画版とクラークの小説版を比較しつつ、90年代サイバーパンク以降の感覚で読み解いた本。

*4:ヘミングウェイは「老人と海」「われらの時代に」などで有名な米国の作家。短編名手といわれている。「人的体験に基づいて簡潔な真実の文章を書く修練を重ね、のちに多くの作家に影響を及ぼしたいわゆるハードボイルドの文体をつくりあげた(日本大百科全書/小学館より引用)」

*5:デビッド・リンチは「ブルーベルベット」「マルホランド・ドライブ」などで有名な米国の映画監督。暗喩だらけのストーリー、美術センスの素晴らしさ、俗悪なものの描き方の巧さ、アイディアの面白さが魅力。

*6:複数の別の意味をもつカットをつなげ、それらのイメージをぶつける事によって、更に複雑で抽象的なイメージを見るものに想起させようとする手法。1920年代の旧ソ連で活発に提唱、議論された映画の理論。例えば前出の映画「2001年宇宙の旅」の中のシーン。猿人が初めて道具として使った骨を空に投げ上げ、その骨に重ねるように、宇宙船が宇宙を進んでいくショットをつなげ、人類の進歩、あるいは道具の歴史といったものを表現した。

*7:トリミングとは普通、写真のふちの切り落とし整形する事を言いますが、ここでは絵をどう切り取ってコマの中に収めるか。という意味で使ってます。

*8:巧みな表現をする技法のこと。隠喩、暗喩など。

*9:手塚治虫がマンガ的記号をどう拡大、拡張していったかも夏目房之介著「手塚治虫の冒険」に書かれています。